中山田のかくれ念仏洞(なかやまだのかくれねんぶつどう)

DATE
住所鹿児島県南九州市川辺町中山田1989
駐車場なし
アクセス
面白さ
訪問日令和8年2月6日

アクセス

勝目麓の交差点から県道29号線を200m北上し、左の脇道に入る。

道なりに進み、カーブミラーのある丁字路で左折(案内看板あり)。

30m先にある民家横の小道から中へと入っていく。

洞窟までの道のり

小道は一本道。

道中も綺麗に清掃されており、歩きやすい。

脇道に入った地点から1分14秒で念仏洞に到着。

洞窟があるのは高さ10mの崖下。

その正面および上部には竹と杉の混合林が広がる。


洞窟の入口。幅0.1m、高さ0.6m。

内部の光が外に漏れないよう、入口を高く設けた念仏洞によく見られる構造である。

構造と内部の様子

          ▲洞窟内を上から見た図(番号は撮影位置、矢印はカメラの向き)


内部から見た外の様子。

入口と内部との高低差のため外の地表は見えない。

入口のすぐ脇にある間道入口。

しかし一旦ここは置いといて、まずは正面のほうから探索していく。

通路は幅1m、高さ1.2m。

入口から4.4m地点で左に大きくカーブしていた。

これも洞窟内の光を外へ出さないための工夫である。

一つ目の小部屋。幅1.1m、高さ1.2m、奥行き1.8m。

幅・高さ共に通路とほぼ同じである。

手前に灯明跡。

部屋の奥には何もなし。

部屋から90度曲がると一直線の通路。

目の前にはバケツやらスコップやらが放置されていることから、ここは戦時中に防空壕として使われていたのかもしれない。

一つ目の小部屋から右に1.5m離れて二つ目の小部屋。

幅0.9m、高さ1.4m、奥行き2.8m。

地面には埃まみれの丸太が2本横たわっていた。

壁に掘られた窪み幅0.38m、高さ0.45m、奥行き0.25m。

おそらくこれも灯明跡だろう。

この日はゲジゲジが1匹潜んでいた。

 

向かいにある三つ目の小部屋。天井部の崩落か、はたまたスコップで砂を投げ入れたのか、こちらは土砂で中が半分近く埋まっている。

幅0.9m、高さ1.1m、奥行き2.6m。

ここより先は通路に傾斜がつくとともに若干右へ湾曲。

さらに地面が固い地盤から柔らかい砂地へ変化。

時折シラスに足を取られながら、奥へと進んでいく。

四つ目の小部屋。隣の部屋とは1.8mの距離。

幅0.8m、高さ0.8m、奥行き2.8m。

ここも地面が砂で少し埋もれていた。

気になるものがあったので小部屋の奥へ。

壁には形が整えられていない大きめの窪み(幅0.45m、高さ0.55m、奥行き0.37m)。

本尊の安置場所だろうか。

その前には煤跡の残る小さな穴。

ここで蝋燭が焚かれていたことは確かなようだ。

直進した先の通路の壁下に小穴。

奥が見えないほど深い。用途不明。

手前からは全く見えない角度で小穴の横にさらに通路が続いているのを発見する。

正面からは死角になっていることから、この奥が法談場所だった可能性が高い。

この先の通路は幅はさっきと同じながら、高さが2.4mと急に高くなる。

頭をぶつける心配はなくなったが、今度は傾斜が一段ときつくなるため、自然と足下に視線が向く。

砂に足を取られながら上を目指す。

登っていくうちに気温と湿度が上昇。先ほどまでカラッとしていた空気が少しジメッとした感じに。

カメラのレンズもこの通り曇ってしまった。

振り返ると、なんと通路の上に部屋があった。

まるでロフトのような二層式の上部空間である。

このような例は他の洞窟で見たことがない。

楕円形の部屋は幅2.2m、高さ1.8m、奥行き2.6m。

※貴重な文化財なのでもし崩落しては大変と今回は部屋に登ることは遠慮した。

正面の壁の奥には窪みらしき穴があった。

声も光も外には漏れることのない安全なこの場所で、本尊を安置し皆で念仏を称えていたのだろう。

当念仏洞における通路の最奥部。

土砂が詰まり、木の根が顔をのぞかせていた。

状況からしてこれは脱出用の避難経路に違いない。

最初の入口付近に戻って間道の調査に移る。

穴の大きさは幅0.7m、高さ0.4mとかなり狭い。

中腰では到底進めないので、匍匐前進しながら中に入る。

間道を出て右側を見ると壁下に直径0.2mほどの穴が2つ開いていた。

相当奥行きがあるらしく目視では端が見えなかった。

奥からこちらに向かって風が吹き出ていたので、どうやらこの穴は通気口のようだ。

反対側(間道左側)は通路。

幅・高さは先ほどまでの通路と変わらないが、こちらのほうが若干天井が四角みを帯びている。

壁も通路も全体的にきれいに整えられている印象。

所感では防空壕(に改造された念仏洞)。

奥には出口が見える。

一つ目の部屋。幅0.9m、高さ1.3m、奥行き2.4m。

奥の壁は将棋の駒のような五角形。

左の壁に灯明跡あり。

1.5m離れて二つ目の部屋。幅0.9m、高さ1.5m、奥行き2.5m。

奥の壁はかっちりとした四角形。

奥の壁には長方形の窪み、そして左の壁には灯明跡。

窪みは幅0.17m、高さ0.38m、奥行き0.17m。

サイズ的にも高さ的にも本尊を置くのにピッタリである。

さらに1.6m離れて三つ目の部屋。幅1m、高さ1.6m、奥行き2.6m。

奥の壁は少し丸みのある四角形。

壁は特に何もない。

もうさらに1.4m離れて四つ目の部屋。幅1.1m、高さ1.5m、奥行き2.4m。

奥の壁は四角形。

手前と左の壁に灯明跡。

四つ目の部屋の向かいにある部屋。幅1.1m、高さ1.1m、奥行き1.5m。

ここだけ丸い部屋。

出口の様子。

こちらも内部と外で高低差がある。

入口と比べてこちらのほうが間口が広いのは、やはり防空壕の線が濃厚か。

出口は幅2.4m、高さ1.1m。

外から見ると出口は地表すれすれに位置している。

出口前方は入口同様、杉と竹の混合林(但し、その先には道路があり、人家もあるので森ではない)。

もしかすると、こちらは正規の入口が使えないときのための「予備の入口」として位置づけだったのかもしれない。

洞窟周辺の様子

山の裾野に位置する念仏洞である。

現在、洞窟西側の山は切り開かれ畑地となっているが、禁制時はこの西側が避難経路だったと思われる。

『川辺町風土記』(青屋昌興 2006年)によると、ここは当時、無辺講という講が存在していたという。洞窟と人家の距離が極めて近いこと、そして洞窟自体の規模も相当に大きいことを鑑みると、ここは地域の信仰の中心地として存在していたようだ。

調査を終えて

中山田の念仏洞は随所に掘られた部屋は小規模ながらも、通路の総延長距離は県内屈指という念仏洞である。しかしやはり最大の特徴は「通路の上部に部屋を作る」というロフト構造にある。

そもそも掘削系の念仏洞は、基本的に洞窟の内部は水平方向に作られる。なぜなら単純にそのほうが掘りやすいからである。通路を狭めたり、曲げることはあっても、傾斜がつくことはまずない。

ところが中山田の念仏洞では洞窟内部に急角度の傾斜がある上、さらにその通路中間上部にきちんとした部屋が設けられている。立体構造の利点というのは声と光の軽減率の向上にある。つまりここは工事の難易度を上げてでも念仏者の安全性が第一に考えられた洞窟なのである。

安全性に関してはもう一つある。それは「地面」だ。

先述したように通路は傾斜がつき始めるあたりから地面が砂地へと変化している。これは緊急時の追っ手対策と考えられる。踏み込みが利きづらい砂地では足を取られやすい。そこにさらに傾斜がつけば上りにくさは猶更である。いざという時、砂と傾斜で時間を稼ぎ、その間に脱出口から逃げる―。そういうシナリオが念仏者の間で共有されていたのではなかろうか。

以上のことから、「通路上部の部屋」が法談場所であったことは十中八九間違いない。高さ的に見ても壁の窪みは本尊の安置場所であろう。では、そうだとすれば四つ目の小部屋(写真⑩の場所)で見た窪みは何だったのか。

これについては「第二の礼拝場所だった」というのが私の考えである。足が弱く、坂を上れない子どもや高齢者であっても等しく法悦に浸れるよう、便宜的な場所としてここにも本尊を置いたのではないか。浄土真宗は「阿弥陀仏によって誰もが平等に救われていく」ことを宗旨としている。ならばその道場(聴聞の場)は誰にでも開かれていなければならない。誰もが仏に手を合わせられることを配慮して上部と下部、2つの部屋に窪み(本尊跡)が作られた、と推測する。

ちなみに間道の先にあった4つ並んだ部屋の2番目にも本尊跡らしき窪みだが、個人的にはこちらの右側の空間全体は防空壕(に二次利用された洞窟)ではないかという疑念がどうしても払拭できないため、禁制時当初のものだったかどうか判断がつかない。残念ながら関連史料も乏しいので、これについては言及しないでおく。

「洞窟内に入口とは別に逃げ道がある」ということは言葉を換えれば「逃げ道が必要になる可能性がある」ということである。それはここが危険と隣り合わせだったということを意味している。

それでもなお当時の念仏者が浄土真宗を“いのちの拠り所”とした意味を我々はもっと深く考えるべきであろう。

かくれ念仏洞を「史跡」と見ることは間違いではない。ただそこから考えを一歩深めれば、「史跡」が「声」になる。

中山田の念仏洞の「声」。それは直接訪れて、五感で体験した者しか分からないものである。