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住所 | 鹿児島県南九州市知覧町西元10368 |
駐車場 | あり(4台) |
アクセス | |
面白さ | |
虫の多さ | |
訪問日 | 令和5年12月31日 |
アクセス
県道263号線から霜出小学校後方の川床橋を渡り、「立山ポケットパーク」を目指す。道の分岐には「かくれがま」と書かれた案内看板が立っているので辿りつくのは容易。
洞窟までの道のり
念仏洞まで続く舗装された遊歩道。
清掃も行き届いており、歩きやすく気持ちがいい。
駐車場から歩いて1分。小さな広場に到着。
切り開かれた区画、地面のアスファルト、植木、ポツンと置かれた石(記念写真用の台座か?)など、他の念仏洞と比べるとずいぶん人工物が多い印象。
この点は意見が分かれるところだが、私としては「整備されてキレイな念仏洞」よりも、当時の面影を遺した「自然あふれる野性味の強い念仏洞」のほうが好みなので、こういう風景は少々残念に思う。
広場の奥、竹林の下の土手が念仏洞の入口。
近づくとセンサーが反応して内部の照明が点灯。
念仏洞探索には必携の懐中電灯すら不要という至れり尽くせり具合。
この入口は平成の時代に入ってから作られたもので、コンクリート製。
この奥にあるのが本来の入口。
金網の戸は施錠されていない。
おそらくこれは野生動物の侵入防止のためであろう。
構造と内部の様子
▲洞窟内を上から見た図(番号は撮影位置、矢印はカメラの向き)
・シラスを掘って作った横穴式の念仏洞。
・二つの部屋がつながったひょうたん型の構造で、手前の部屋に比べて奥の部屋は天井がやや低い(手前の部屋:1.5m、奥の部屋:1.1m)。
・天井、壁、床に至るまですべてがモルタルで保護されている。
①
こちらが本来の入口。
現在はただの通路の一部と化しており、元の姿や大きさは一切分からない。
②
内部から外に向けて撮影。
面影がないので当時の通路の幅や高さは不明。
ただ、地面より内部は低かったことだけは分かる。
③
手前の部屋は幅4m、奥行き1.9m。
壁(写真中央)と天井にそれぞれ1つずつ穴の跡がある。
④
壁の穴。幅0.16m、高さ0.23m。
明かり取りのための蝋燭を置いていた場所。
⑤
天井の穴は空気穴。縦0.16m、横0.10m。
現在は途中で埋められていて、外とは繋がっていない。
ちなみに天井に空気穴がある念仏洞は私が把握する限りここを含めて「都迫の念仏かくれ窟」(鹿児島市本名町)と「長里のかくれ念仏洞」(日置市東市来町)の3カ所のみである。
⑥
奥の小部屋。幅1.1m、奥行き1.6m。
広さでいうと大人4~5人が座れる程度。
壁の一部が掘られているが、先ほどの部屋からは見えない位置に作られているのがポイント。
⑦
くりぬかれた壁は祭壇の跡で幅0.3m、高さ0.7m、奥行き0.5m。
現在は仏像が安置されているが、大きさからすると当時は掛け軸を掛けていたのだろうか。
洞窟周辺の様子
洞窟周辺は竹林地帯となっている。
かくれ念仏者にとって一番の懸念材料は「音(声明・法談)」と「光(明かり)」であった。なぜならこれらが外に漏れてしまうと居場所が役人に知られる恐れがあるからである。
「光」は洞窟の構造次第である程度緩和できようが、「音」は構造だけでは難しい。
ゆえに多くの念仏洞は川や竹林の近くに作られた。人の声に水や竹の音を重ね、「音」をかき消すためである。
立山のかくれがまは最寄りの集落との距離が極めて近い。つまりそれは念仏者が足しげく通える場所だったということである。ただそれは同時に役人に見つかる危険性も高かった場所でもあったということでもある。
近くに川がない地域だったからこそ、竹林付近に洞窟を造ったのである。
調査を終えて
念仏洞前に設置されている記念碑の説明文によると、かつてこの念仏洞の内部は崩落土や泥の流入によって荒れた状態だったという。その後、保存整備工事(平成14年)が行われ、現在の総モルタル造りの形になったそうだ。
後日、知覧図書館で『知覧町の文化財 第一集』(鹿児島県知覧町教育委員会編 1985年)という本の中で次のような記述を見つけた。
立山集落の現在竹林になっているところに隠れ穴がある。一向宗禁制の時代から明治の廃仏毀釈の時代まで、同信の者た ちが取り締まりの目をのがれて阿弥陀仏を拝んだ聖地である。洞窟の前には人家があったという。入り口は這って入るように低いが、中に入ると北に6メートルくらい掘り、それから左にまげて4メートルにばかり掘って、中は立って歩けるゆとりがあったという。今は土塊が落ちて立つことはできない。昔は空気抜きの気孔もあったという。
注目すべき点は、「洞窟の前には人家があった」という点と、この文章が書かれた1985年時点ではもうすでに「土塊が落ち」ていたという点である。
人家があった頃の写真は発見できなかったが、保存整備工事が行われる前の「洞窟の外観」に関しては『南九州市文化財ガイドマップ(知覧地区)』(南九州市教育委員会文化財課編 2010年)にてカラー写真で確認することができた。竹藪の土手はほぼ垂直に削り取られ、高さ1mほどの当時の姿そのままの洞窟の入口が顔を覗かせていた。写真から推測するに人家は土手すれすれに建っていて、洞窟を隠していたのであろう。
まとめ。
保存工事を行わなければ「立山のかくれがま」は今頃完全に埋没していたかもしれない。
私自身は埋没するのも〝あり〟だと思うし、逆に後世に向けて遺すのもまた〝あり〟だと思う。何に重きを置くかで答えは違うからである。
ここは数ある念仏洞の中で「一番最後まで残る念仏洞」になる可能性が高い。遠い未来、誰かがこの地を見学して、かくれ念仏に関心を持ってくれれば、「遺した意味」がそこに現れるのだと私は思う。