枦原の念仏田(はぜばるのねんぶつだ)

DATE
住所鹿児島県枕崎市枕崎9078
駐車場なし
アクセス
面白さ
虫の多さ
訪問日令和3年3月5日

アクセス

県道34号線上、瀬戸公園から枕崎市市街地へ向かう途中に立っている

バス停「かくれ念仏入口」が目印。

そこから右の脇道へと入る。

洞窟までの道のり

脇道を150mほど進むと分かれ道。

中央に矢印看板が立っているが、肝心の看板が現在は朽ちて落ちていた。

看板に従って左へ曲がる。

100mほど進むと左手に「史跡 枦原の信仰群」と書かれた標柱。

その側面には「田んぼの中には、河童封じの四面像もあり河童の難に会わないよう祈ったと思われる」、背面には「享保十五年(千七百三十年)水神・地神・田の神に豊作を祈った」と説明がされていた。

期待に胸を膨らませ、林の中へと入っていく。

林の中はなだらかな斜面。

道に迷わないよう手すりロープが設置されている。

道なりに進むと、土手に半分埋まった岩が見えてきた。

「かくれ念仏の由来」と書かれた看板が立っているところを見ると、どうやらここが目的地のようである。

標柱の場所から歩いて53秒で到着。

意外にもそこは二つの岩が並んでいるだけの何の変哲のない場所。

期待していただけに、少々拍子抜けしてしまった。

看板の説明書きにも大したことは書かれていなかった。

岩は二つ並んでいるが、地面の囲い(祭壇?)を見る限り、右側の岩だけが対象なのだろう。

一応、二つの岩に挟まれた隙間も隈なく観察したが、本当にただの隙間でしかなく、洞窟のようなものはどこにも見当たらなかった。

構造と内部の様子

▲正面から見た図(番号は撮影位置)

・岩の下方に「南無阿弥陀仏」の文字。


岩に彫られた「南無阿弥陀仏」。大きさは0.5m。

両脇にも何か文字が彫られているようだが、磨滅していて解読できない。


岩に関してはこれ以上何も発見できず。

とりあえず、岩の先にはまだ道が続いていたのでここからは周囲の探索に切り替える。

先ほどの岩の位置から40mほど歩くと、顔が彫られた石像を発見。

これが先の標柱に書かれていた「河童封じの四面像」のようだ。

四つの顔は手彫りならではの温かみのある表情。

四方に顔は「どこにいようと私が見ているぞ」という意味である。

これでは河童もさぞ怖かろう。

ちなみに四面像は胴体部が三角錐、頭部が円柱形の石造りで高さは0.6m。

顔の一つがかくれ念仏の岩の方角を向いているかと思いきや、そんなことはなかった。

四面像よりさらに先へ。

開けた平野と共に川の跡。当時はここに田んぼが広がっていたようだ。

 

その一角にあった壁面が丸く掘られた岩。幅2.4m、高さ2.8m。

ここが標柱にあった「享保十五年(千七百三十年)水神・地神・田の神に豊作を祈った」場所に違いない。

 

円の直径は0.37m。

読み取れたのは「奉請」「土公」「水神宮」「三月吉日」。

標柱の説明と合わせると、「新しく田んぼを開墾するにあたり、享保十五年三月に水と土地と田の神を祀った(と、この岩に記録した)」ということになる。

なお、岩に阿弥陀仏の記載はないので、この場所自体はかくれ念仏とは関係なさそうである。

 

岩の正面の田んぼ跡。

奥には用水路が作られており、少量の水が流れていた。

洞窟周辺の様子

航空写真で見ると鬱蒼とした森の中のように見えるが、実際は空が見えるほど明るい(光が差さなければ稲が育たないのだから、当然である)。

近隣に住宅はない(最寄りで1kmほど離れている)。

どうしてこんな辺鄙な場所を開田の地としたのか、その点は不思議である。

調査を終えて

『枕崎市誌 下巻』( 枕崎市誌編さん委員会著 1990年)によると、文字が刻まれていた岩にはそれぞれ次のように書かれているという。

(a)「南無阿弥陀仏」の文字が彫ってあった岩

   癸丑 十一月二十八日 南無阿弥陀仏 儀右ヱ門

(b)田んぼの跡地にあった岩

   奉請 田主儀右ヱ門 

      享保十五年 

      田之神宮 土公 水神宮
      三月吉日

次いで文献には、

以上のことからして、次のようなことが推測される。この迫田を拓いたのは儀右ェ門、年代は享保十五年(一七三〇)三月水神・地神・田之神に豊作を祈って水・地・田の三神を祀った。六字の名号を刻したのも、ここの田主儀右ェ門である。干支の癸丑は享保十八年であり、田を開いた三年後である。名号は豊作祈願のためとは思われず、河童封じの四面像と関係がありそうである。地区の古老によれば、「ここの田んぼには昔から河童が出る、あぶないから子供は行くな」と伝えられているという。開田まもないある日、子供がこの川で河童の難にあい溺れ死んだ。儀右ェ門は哀情の念禁じがたく、岩石に六字の名号を刻み、冥福を祈り、再び河童が出ないように、河童封じの四面像を作って見張りをさせた。と推測するのは誤りであろうか。

とあった。

 ※ちなみに文献には両方の岩に「儀右ヱ門」の名が刻まれているとしているが、過去にこの場所を訪れた方のFacebook(写真は2019年3月に撮影されている)を見ると(b)に「儀右ヱ門」の文字はない。

文献の後半部、「開田まもないある日~」以降は、あくまでも推測なので史実とは言えない。確かなのは古老の証言だけである。

一応、私見を述べておくと、ここがかくれ念仏の地ということなら、私はこの河童伝説は知覧町で見た「盗人穴」と同系統であると考える。すなわち、ここでかくれ念仏が行われていることを役人に悟らせないために、不用意に子どもが近づかないよう大人たちが使った方便だったのではないかと。四面像の存在は、より河童伝説に信ぴょう性をもたらすために設置したのではないかと。要するに四面像は河童に向けたものではなく、人間の子どもへ向けたものであると私は思うのである。

儀右エ門がはじめからこの場所をかくれ念仏の地として見定め、それをカモフラージュするために田を開いたのか、それとも田を耕作しているうちに人目につかないことが明らかになり、後に(享保18年に)かくれ念仏の地となったのか、それは分からない。

事のいきさつは想像の域を出ないが、ここが「かくれ念仏の場所」として伝えられている以上、ここは神と河童と阿弥陀仏がそれぞれ信仰されていた場所なのである。

開田と河童と名号をどのように結びつけるか。

情報が少ないからこそ、「枦原の念仏田」は想像力を掻き立てられる不思議な魅力がある。