平田のかくれ念仏洞跡(ひらたのかくれねんぶつどうあと)

DATE
住所宮崎県都城市乙房町2697−1
駐車場あり(20台以上)
アクセス
面白さ
虫の多さ
訪問日令和2年10月30日

アクセス

庄内橋南交差点から東へ350m先にある交差点を右折。

道なりに270m進むと右手道路沿いに標柱が立っている。

洞窟までの道のり

駐車場から大きな看板が見えるので、洞窟の場所は一目瞭然。

標柱の位置から35秒で到着。

土手を背にして三方が柵で囲われ、入口には赤い蓋がされていた。

手前にある注意喚起の立て札に加え、徹底した侵入禁止感がある。

洞窟上部は雑木林。

竹もちらほら見えるが、竹林というほど多くはない。

洞窟の入口。近づけないため目測になるが、幅1m、高さ0.7mほどか。

その形は蒲鉾のような綺麗な半円形。

後ろに回って撮影。

地上よりも低い位置に入口を設けるため、入口前方は四角く切り取られ、なだらかな傾斜がつけられていた。

入口を低位置に造る理由はもちろん光漏れ対策である。

構造と内部の様子

(案内板の説明をもとに考察)

高さは通路で1.4m、奥の部屋で2mとのこと。部屋の広さはおよそ大人8~10人が座れる程度か

光が外へ漏れないように、入口と奥の部屋をつなぐ通路は直線ではなく、敢えて左に湾曲させてある。


洞窟周辺の様子

東西に延びる林の一帯を境界として北は水田、南は畑が広がる。なお、最寄りの集落は目と鼻の先というほど近い。ちなみに地図をより高度から俯瞰してみると、この東西の林は母智丘(もちお)という標高245mの丘陵から出ているもので、約5kmにわたり東へ伸びている。

ここから考えると、大昔はこの5km地点まで森があり、それがだんだんと田畑に開墾され、現在のような姿になったということだろうか。


調査を終えて

洞窟横に設置された看板によると、この洞窟は平成2年(1990年)に起きた台風によって天井部が崩落し、埋まってしまったとのこと。翌年の平成3年に調査のため一旦土砂は取り除かれたが、実測後に入口部分より先は再び埋められたそうだ(それならわざわざ入口に蓋をしなくてもいいような気もするが…)。

都城市立図書館所蔵の『都城市の文化財』(都城市教育委員会著 1976年)によると、真宗が解禁された明治9年以降も一般学習の場として明治20年ごろまで使われていたという。また、現在、都城市の中心部を国道269号線が通っているが、この国道ができる前は念仏洞のある平田地区は裏道で寂しい場所だったらしい。ということはやはり、上の「洞窟周辺の様子」の項で述べたように、国道の開通に伴い、森が切り開かれ、住宅が建ち、田畑が開墾されて現在の姿になったようである。道路の影響とは言え、ここまで大きく周囲の風景が様変わりするのも珍しい。

都城市一帯は盆地であり、遠くまで見通せる広い平野が特徴的な地形である。それを象徴するかのように公園からはのどかな景色を一望することができる。禁制当時の面影は今はもうなくなってしまったが、街並みが変わってもなお、洞窟跡としてこの地に残り続けていることは歴史の証拠として大きな意味を持つ。特に「入口前の地面を溝状に掘る」という点は平田でしか見られない特徴であり、ここから当時の立地状況を考える手掛かりとなりうる。

山の中にあったのか、それとも家屋の裏手にあったのか、現時点では資料がなさ過ぎてなんとも言えないところだが、それだけにまだまだ研究の余地がある念仏洞跡といえよう。