DATE | |
住所 | 宮崎県都城市山田町山田5811−1 |
駐車場 | なし |
アクセス | |
面白さ | |
虫の多さ | |
訪問日 | 令和6年4月24日 |
アクセス
県道417号線から平山自治公民館へ下る脇道に入る。
そのまま道なりに400m。川を渡ると標柱が見えてくる。
洞窟までの道のり
地面はコンクリートでできた遊歩道。
草が繁茂していることから、訪問者は少ないようだ。
遊歩道が整備されているので昔はちょっとした観光地だったのかもしれない。
左手に流れているのは山田川。流量は多い。
水の音を利用して念仏の声をかき消していたのだろう。
遊歩道の突き当り。ここで手すりが途切れる。
正面は道のない雑木林、右手は小高い丘。
洞窟らしきものは一見どこにも見当たらない。
よくよく注意して探していると、足元に朽ちた標柱が落ちていた。
歩き始めて53秒。どうやらここが目的地らしい。
右側の丘は高さ10mほど。
上は雑木林となっている。 地層がむき出しになっている箇所が明らかに異彩を放っているので、とりあえず接近してみる。
隅々まで探したが穴は発見できず。
おそらく念仏洞はこの地層の真下で、崖崩れによって埋没してしまったものと思われる。
顕わとなった地肌は崩れた部分の名残だろう。
地層の下部、念仏洞があったであろう場所。
埋まってから、相当時間が経過したらしく、もはや見当もつかないような状態。
土砂の堆積具合から見ると、入口の高さは地上から1mくらいか。
他にめぼしい手掛かりはなし。
諸行無常とはまさにこのこと。
構造と内部の様子
・詳細不明
洞窟周辺の様子
調査を終えて
埋もれる前の洞窟の姿は都城市の公式ホームページに掲載されている。画像を見る限りでは土手下に掘られた洞窟で、入口部分を高く設けているようである。入口の両脇が土手で壁のようになっているため、横方向からの監視の目を掻い潜る意図があったのかもしれない。
禁制当時、洞窟への行き方は
①現在と同じように標柱があった場所(南側)から川沿いに進んだ
②洞窟正面の田んぼから川を渡った
③来た道とは反対方向の北側から雑木林を抜けて進んだ
のいずれかとなるが、地形を見たところ、当時は現在のような標柱沿いの道は通ってなかったと思われるので、推測にはなるが、私は②か③の方法で念仏洞へ向かったと考える。
ちなみに、私の調査では現状、ここに関する史料が一切見つかっていない。内部構造はおろか、その当時、念仏洞を利用していた人々のエピソードすらも不明である。これについては今後の成果を待ちたい。
草が伸び放題になっていた先の遊歩道の姿が、風化していくここの歴史を表しているようで、少し寂しさを覚えた。しかし、穴が存在しているならまだしも、埋もれてしまってはなかなか復権は難しいだろう。
「平山のかくれ念仏洞跡」は現在進行形で消えつつある念仏洞であった。