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| 住所 | 宮崎県都城市高城町有水1878-1 |
| 駐車場 | あり(10台以上) |
| アクセス | |
| 面白さ | |
| 虫 | |
| 訪問日 | 令和6年4月24日 |

アクセス
旧田辺小学校から南へ450m。バス停「田辺」のすぐそば。
道路沿いに石碑や説明看板もあるので見つけやすい。
洞窟までの道のり

石碑の斜め向かいには専用の駐車場。
駐車場には地域の方々の手による大小様々なオブジェが設置されている。

道路沿いの案内看板に従って谷を下りていく。階段も整備されているので歩行は容易。
結構な森の中にも関わらず、階段周りの掃除が行き届いていることに驚いた。きっと地域の方が定期的に清掃してくださっているのだろう。

階段を50mほど下りると谷底に着く。
木に囲まれているだけあって一帯はとても静かだ。

洞窟に到着。道路から1分27秒。
土手下に掘られた洞窟であるが、入口が土砂で埋まらないよう、天井と側面がコンクリートで覆われていた。

コンクリート内に入るとこんな感じ。
三方が囲まれているので少々圧迫感がある。
天井の蛍光灯は点灯せず。しかし背中側から十分に光が入るので、目が慣れれば困ることはない。
入口前方にはステンレス製の鉄柵。右の壁には構造図と内部の写真、そして目立つように赤字で大きく「立入禁止」の4文字。

鉄柵には施錠された南京錠。
「立入禁止」だから当然か。

鉄柵越しに入口を撮影。
入口の高さは壁の構造図によれば0.5mとのこと。幅に関しては表記なし。目測ではおよそ2mといったところか。
入口が低いのは外への光漏れ対策と、洞窟の存在そのものを目立たなくさせるためである。

これが壁に貼ってある構造図と内部写真。
左上に「日本で唯一の集団用念仏洞」と書かれているが、‟日本で唯一”の部分については疑わしい。なぜなら小林市の「永久井野」や都城市高崎町の「轟」(現在は埋没)も大規模な集団用念仏洞だからである(というより、大抵の念仏洞はみな集団用である)。
構造と内部の様子

・シラスを掘って作った水平方向の念仏洞。
・それ以外については詳細不明。

思い切り体勢を低くして可能な範囲で内部を撮影。
奥には土嚢袋。さらにその奥がありそうな気もするが、この位置からでは確認できなかった。
手前には水たまりの一部が見える。

水たまり部分。壁の構造図によると奥行きは10m、水深は5cm~30cmとのこと。
奥に行くほど深くなっているのか、それとも両端は浅く中央部が深いのか、気になるところである。

洞窟の正面には小さな川。流量は少なく、声をかき消すほどではない。
「念佛湧水」という名称らしいが、これはさすがに後付けだろう。

ただ湧水というだけあって、水底からは確かに綺麗な水がポコポコと湧き出ていた。
もしかすると洞窟内部の水もこの湧水と関連性があるのかもしれない。
洞窟周辺の様子
洞窟は森に囲まれた谷底に位置する。森の周りは道路と同じ高さで平坦な畑が広がっていることから、「森の部分だけが窪地(=谷)になっている」ということになる。
人家に関しては戸数は多くないもののある程度点在しており、洞窟との距離も徒歩圏内といったところである。
ただ洞窟の広さを考えると、この田辺地区だけでなく市野々・田尾・豊広といった近隣地域からも往来があった可能性が高く、そういう意味では半径3km圏内のかくれ門徒たちがここに集まっていたのかもしれない。
調査を終えて
都城市にある念仏洞の中で、埋没せずに残っている洞窟は6ヶ所中「田辺のかくれ念仏洞」と「田島のかくれ念仏洞」の2ヶ所のみである。しかしどちらも入口には錠前付きの鉄柵が設けられ、内部へは入れないようになっている(聞いた話では、過去に鹿児島で中学生らが近所の防空壕跡に入って焚き火をし、一酸化炭素中毒で亡くなったという事件を受けて、都城市では全面禁止としたらしい)。一応、無理を承知で都城市の文化財課にもかけあってみたが返答はやはり「不可」だった。いつか文化財課から洞窟内部の詳細が一般公表されることを願うばかりである。
では上の構造図をもとに少しだけ考察してみたい。
2つある部屋はどちらも入口から直角に作られている。広いのは入口からすぐの右の部屋であるが、法談が行われていたのはおそらく左の部屋である。念仏洞において何よりも優先されるのは声や光をできるだけ外から遠ざけることにあるからだ。したがって、入口から遠く、かつ入口から見て死角になっている左の部屋のほうが可能性が高いといえる。
もう一つ、右の部屋の水たまりについてだが、この水たまりはおそらく禁制時には存在しなかったと思われる(隠れ潜むうえでは何の意味も果たさないため)。洞窟の外に湧水があったことを踏まえると、長い年月をかけて洞窟内に水が染み出してきて現在の姿になったのではないだろうか。
ちなみに、洞窟前にある説明看板によると、ここは大正10年(1921年)頃に山崩れに遭い、約50年間埋まっていたという。その後昭和45年(1970年)にこの地の人々によって発掘され、再び日の目を浴びるようになったとのこと。
それ以来ここは地域の力で大切に守られてきた。駐車場が整備されていること(※私が最初に訪れた2020年時には駐車場はなかったと記憶している)、そして道路から洞窟までの道中がいつも清掃されていること、が何よりの証拠である。場所によっては地域の誰にも知られていない(=忘れられた)念仏洞もある中で、こうして地域全体で保存・管理されている念仏洞というのは大変有難いし、その精神性は開教150年経った今だからこそより尊いものがある。
念仏洞の存続はそこに住まう人々の協力なしには立ち行かない。
次世代へと語り継いで、これからさらに50年、100年先もこのままの状態が続いてほしい。
