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| 住所 | 鹿児島県日置市日吉町日置5784 |
| 駐車場 | なし |
| アクセス | |
| 面白さ | |
| 虫 | |
| 訪問日 | 令和7年12月22日 |

アクセス
県道37号線を明信寺の納骨堂前で東に曲がり、900m先の交差点まで道なりに進む。交差点で右折したら140m先の角(消火栓が目印)で左折し、その後、道路左側の最初に見える住宅から中に入る。
「エトツの穴跡」は個人の敷地内にある場所なので、訪れる際は必ず住人の許可を得てから入ってください。
洞窟までの道のり

民家横の坂を上り、上段にある畑へと向かう。

左手にある空き家の前を通り、家の裏側へと回る。

裏へ回ると土手の斜面中腹に一本だけ飛び出た竹が見えるので、そこを目指して尾根状の土手を上る。

土手の中間あたりで藪の中に入っていく。
竹やら蔓やらで若干歩きにくいが、ここから目的地までは5m程度なので、それほど大変でもない。

最初の地点から1分22秒で到着。
藪(主に竹林)の中にあるこの念仏洞は、藪の外からは完全に見えない。
その入口は土砂により半ば埋まりかけている。

入口の様子。幅3m、高さ1.7m。
近づいてみると意外と大きい。
構造と内部の様子

・シラスを掘って作った水平方向の洞窟。
・内部の高さは1.7m。入口から向かって左側は巨大な大空間、右側は通路沿いに小部屋が連なる。
・出入口は全部で4ヶ所。そのうち1ヶ所はコンクリートで封鎖され、別の1ヶ所は穴自体が小さい。現在通行可能なものは2ヶ所のみ。
▲洞窟内を上から見た図
(番号は撮影位置、矢印はカメラの向き)

①
内部から見た外の様子。
地上との高低差によって内部からは竹林の上部しか見えない。さらに先述のごとく洞窟前方は藪に囲まれていることから、内部の光は藪の外からは見えなかったと思われる。

②
中に入ると、すぐ右に通路。
「入口に対して直角に作られている」というのがひとつ大きなポイントである。

③
まずは左側の巨大空間から散策。
高さは1.7mほど。温度・湿度は外とほぼ同じ。
外の音は聞こえない反面、時折コウモリの羽音が洞窟のどこからか聞こえてくる。

④
視線を左に向けると奥にも通路らしき空間が見えた。
手前には大量のシラスの山。状態からしてこれは天井部分が崩落したもののようだ。

⑤
入口から見て真正面にある部屋。
大きさは幅2.8m、高さ1m 、奥行き2.6m。
大人15人ほどが座れそうである。
壁に目立った特徴はなし。

⑥
通路右側の最奥部。
これより先にも道が続いていたようだがすでに埋没。

⑦
向き直って通路左側。
奥にコンクリートブロックの壁が見える。

⑧
ここもかつては出入口として使われていたようだが、事故防止のためか現在は完全に封鎖されている。ただ、形状からしておそらくここは念仏禁制時のものではなく、後の時代(戦時中?)に壁を壊して新たに作ったものであろう。

ちなみに外から見るとこのようになっている。

⑨
引き返して入口付近の通路へ移動。
幅1.6m、高さ1.7m。突き当たりまでは距離5.3m。
そこからさらに左へ直角に曲がる。

⑩
角を曲がると、幅は0.8mと半分程度に。
一直線に伸びる通路は相当深く、この位置からは最奥部まで見えない。

⑪
8mほど進むと最初の小部屋の入口が現れる。
入口は幅0.7m、高さ0.9m。
中腰では入れないため、四つん這いになって中に入る。

⑫
入口の狭さに反し、部屋の中はなかなかに広い。
ハート型の内部は幅4.6m、高さ1m、奥行き4.3m。
広さだけでいえば20人は入れそうである。
円形ではなくハート型なのは部屋を二分し、左右で異なる役割を持たせてからか。

⑬
部屋の左側。
高さ・広さともに、最初に見た入口真正面の部屋(⑤の場所)とほぼ同じ。
唯一異なる点はコウモリの住処と化していることくらいである。

⑭
部屋の右側。
左側と比べると若干広い印象。
奥にはさらなる通路が存在する。

⑮
こちらも現在は埋没。
避難経路として外へ続いていたのか、それともこの先にまだ部屋があったのか気になるところである。


⑰
壁に見つけた謎の溝。
こちらは明らかに人に手によるものだ。

⑱
溝は反対側にも。
天井の崩落防止を目的とした支保工跡か。

⑲
角を曲がってから約20m地点に外へと通じる出入口。
何故かこの部分だけ通路より地面が一段低い。
少し空間にゆとりを持たせてあるのは、ここに外の様子を伺うための見張りを置いていたからか。

⑳
最初の入口同様、傾斜のある構造。
幅1m、高さ0.6m。

出入口を抜けた外の様子。
すぐ目の前には道路が走る。
しかし当時は森の中だったに違いない。

㉑
再び洞窟に戻る。
先ほど見た壁の両脇の溝(⑱の場所)はこちら側にも付いていた。

㉒
一段上がって奥へと進む。

㉓
灯明跡。
広い洞窟の割に実は灯明跡はほとんど見当たらない。

㉔
最奥部。
一応、外とは繋がっているが、穴が小さいため(あとゲジゲジが落ちてきそうだったため)通り抜けることはできなかった。
※通路上の他の小部屋については数が多いためここにまとめて記す。






洞窟周辺の様子
念仏洞一帯を俯瞰して見ると、ここは集落と山(森)のちょうど境界線あたりに位置しており、地域密着型の念仏洞としてよく考えられた立地となっている。
俯瞰する範囲をさらに広げれば、ここより西へ950m地点には「水天山のかくれ念仏洞(現在埋没)」、南西へ1km地点には「内門の穴(現在埋没)」と比較的近い場所に他の念仏洞も存在していることから、ここを利用していたのは念仏洞を中心として周囲500m程度と予想される。
調査を終えて
当念仏洞について、まずは『日吉町郷土誌』(日吉町郷土誌編さん委員会 1988年)から引用する。
エトツの穴
エトツとは「絵解き」から来たことばである。真宗の教えを分かりやすく絵に描いて説いたことからお説教や法座のことをエトツというようになった。
昔から中牟礼の仮屋フミ宅の庭の東側にある穴をエトツの穴といっていたが、今は余り知られていない。現在穴の入り口は崖崩れのためシラスでうず高く埋まってしまい、わずかに穴の上部が見えるが、とても中に入ることものぞくこともできない。藩政時代付近の真宗信者たちがひそかにこの穴に集まって法座が開かれていたと伝えられている。
なお、ここの穴と裏(北側)の平川ミヨ子宅の東側の穴(ここはかくれ念仏の遺跡ではない)との間は、戦時中兵隊の手によってトンネルが掘られて通行に利用されていた由。この通路は今もそのまま残っている。
補足すると文中にある仮屋フミ宅というのは畑の横にあった空き家のことである。下の民家の現当主の父親(フミ氏との間に血縁関係なし)がフミ氏の土地を購入して現在に至る。
ちなみに入口が完全な形で存在していた頃の写真は『日吉町郷土史 史跡編』(鹿児島県日吉町役場 1973年)の中に残っている。ここには入口の全体像がはっきりと写っていることから『日吉町郷土誌』の文章はこの写真が撮られた頃よりも“後”ということになるのだろう。
また手前に立つ人と洞窟入口の位置関係からして、崖崩れ前は入口前方にかなりのスペースがあったようである。
ただ一つ引っかかるのは文中の「わずかに穴の上部が見えるが、とても中に入ることものぞくこともできない」の部分である。入ることものぞくこともできる現状と微妙に齟齬が生じている。

また『日吉町郷土史』には上の写真と共にこのような解説が添えられている。
永徳の穴
仮屋フミ家の東側にある。写真左7メートルの所に高さ2メートルの小穴があり、念仏洞への本門といわれる。
「エトツ」と「永徳」。名称が異なっているが、仮屋フミ氏の名前が一致していることからこれは同じものを指している。歴史が下るにつれ、エトツという言葉が変化し、エトツ → エートツ → エートク → 永徳となったのだろう(写真は『日吉町郷土史』のほうが古いのに、名称は『日吉町郷土誌』のほうが正しいという、なんとも不思議な話だが…)。
最後に「戦時中兵隊の手によってトンネルが掘られて通行に利用されていた」のは洞窟のどの部分か、ということについて私見を述べておく。私の見立てでは右の図の赤い部分が戦時中に新たに掘られた可能性が高いとみている。
まず、左側の大空間。コンクリートの壁も証拠の一つだが、その先にあるのが平川ミヨ子氏の住宅であることから、ここは十中八九間違いないだろう。
右側の通路沿いの6つの小部屋も禁制時代のものとは言いがたい。理由は部屋の形状が手前の部屋(ハート型の部屋)とは明らかに異なるからである(ただし、これについては兵隊が掘ったものではなく、一般人が掘った「防空壕跡」と見るほうが自然である)。
…と、するならば、もしかすると外へと通じていた2つ目の出入口も後世に作られた(あるいは拡張された)ものと考えるべきかもしれない。

エトツの穴はいわゆる「二次利用された洞窟」である。
しかし念仏洞本体はそのままの状態で残っており、「入口から直角に3回曲がる構造」「小さく作られた部屋への入口」「避難経路の存在」といった特徴は念仏洞研究において大きな価値を有している。
戦時下においても念仏洞本体には手が加えられなかったこと、それはそのまま浄土真宗の信仰の強さを表しているのかもしれない。
